· 

自分に向けた慈愛こそが自分を愛すること

最終更新:  作成開始: 4-05-17 最後↓

 

「自分を愛する」。それは方法論ではなく、意欲の問題。

 おそらく、この人生は「自分を愛さない」ところからスタートし、そうすると散々苦渋を集めることになり、それがいずれ極まり、ある日どこかで「自分を本気で愛する」と決める、そんなふうに展開している、そのように見える。

 

「人は困らないかぎり変わらない」

 

 

 痛みによって、何かを気づかせるようにこの宇宙が計らっているかのように見える。

 

 

自分を大切にしなさい。 自分を愛しなさい。 と。

 

 

 

どうやったら自分を愛せるのか

 どうやったら自分を愛せるのか。

 

方法はない。

 

 

 奇跡講座にも「あなたはそもそも愛なのだから、教える範囲を超えている」(テキスト序文1.)とあり、「愛はあなたがすでに知っているのだから、教えられるものではない」と。

 

 つまり、あるのは「今のあなた自身が自分自身を愛したいか」どうか。

 

 「どうしたら自分を愛せるのか」という問いはすでに失敗している。

 

 まだ本気で愛する気がないからそんな質問をしている。

 

 

「愛したいか」つまり意欲の問題

 

方法論ではなく。

 

 

 

いつこの姿勢が整うのか

 愛そうとするのではなく、「ほんとうに自分は自分を愛したいのか」と自分の心の奥底に問いかける。 本心からの声に正直に耳を傾ける。

 

だが大事なのは問いかけることでもなく、耳を傾けることでもない。

 

この姿勢こそがすべてだ。

 

 

 その答えが「愛したくない」そう答えるかもしれない。

 

 本心、本音が、思っていた回答と違ってびっくりするかもしれない。 それはそれでいい。 素朴に聞いて、素直に回答を受け取る。 それがどんな答えだとしても。

 

 

 この問いかけ、そして耳を傾けるといった、素直に自分自身に関心を向ける姿勢こそが、「自分自身に対する愛」。

 

 自分を愛している、大切に思っているがゆえの、正直で慈愛に満ちた姿勢からの本心の確認。

 

 そこには咎める姿勢など一切ない。

 

 

 だがこの素朴に聞く、これが普通の人には難しい。

 

 今はまだ自我が主導権を握っているから。 自我は本当の自分を愛していない。 だから人生から突き付けられた難題に散々取り組んできた結果、自我が衰弱してこないと普通はこの姿勢を有する問いかけの座に就けない。 問いかけ自体はできても空回りする。 自我は恐れで一杯だ。 すぐに何かに頼ろうとする、獲得しようとする。 幸せを。 苦痛のない状態を。 つまり、自我としての自分の考えていることが最も優先順位が高く、本当の自分に対する優先順位が一番ではない・・・・・・からだ。 つまり本当の自分をまだ愛する状態にない。 だからどこかで恐れを突き抜ける必要がある。

 

 

 

 そして自分の本心の正直な声を今のあなたは恐れているかもしれない。 想定外の答えが返ってくるかもしれないから。 だから素直に聞けない。

 

 

 結局、今のあなたが正しいと思う考えで生きるしかないということだ。 そして経験から何らかの結論を導く。

 

 

あなたは愛をすでに持っている。

 

いつ発揮するかは今のあなたに自由はない。

 

 

 あえて簡単に言えば、へとへとになったとき準備が整う最も近いところにいると言えるかもしれない。